関東支部

関東支部情報はこちら!
待望の関東支部HPが完成致しました。下記リンクよりご覧下さい。
関東支部HP

同窓会Facebook
同窓会Facebookページ
お問い合わせ
同窓会事務局
〒440-0034
豊橋市豊岡町74
豊丘高校内

メール送付

メールマガジン

登録用空メール

登録

解除

« 石川亮二先生 | メイン | 渡邉耕造先生 »

2009年2月 6日 (金)

安形冨美利先生

【プロフィール】
昭和46年教員となり鳳来寺高校赴任。その後昭和51年に豊丘高校へ転任し、保健体育教諭として8年間を豊丘高校で過ごす。その後、時習館高校へ転任、今年3月に退職。

Agata_pic バスケットボールに関わって一生を過ごしたい!

質問:先生は3月に退職されたそうですが、現在はどのように過ごされていますか?
安形先生:今は健康の為に、午前中スポーツクラブに行って運動し、午後は自由に過ごす生活をしています。
 これと言った趣味はありませんが、まあ、バスケットボールが趣味みたいなものです。これまで豊橋バスケットボール協会の監事をしていましたが、今年から協会の傘下である、豊橋ミニバスケットボール連盟の会長になりました。今年6月初旬には、豊橋バスケットボール協会主催のミニバスの招待試合があり、招待チームとして、三重県・岐阜県代表、県内では名古屋市・西尾市・岡崎市・豊田市などから参加していただき豊橋総合体育館で行われました。
 今はコーチとして教えてはいませんが、機会が有ったらコーチとして教えたいと思っています。

質問:安形先生と言えば、バスケットボール部顧問の印象が強いのですが、先生とバスケットボールとの出会いはどのような事だったのですか?
安形先生:私が高校生の時、何気なくバスケットボール部に入ったのがきっかけです。
 私の田舎は、鳳来町の海老と言う所なんですが、豊橋の時習館高校に進学することになり、豊橋で下宿を始めました。その下宿先がバスケットボール部OBの先輩の家で、このお世話になった先輩の影響もあって、バスケットボールに関わって一生を過ごしたいなと思い始めた事を覚えています。
 それを考えた時に将来の職業は教員が良いと考えました。年をとっても教える事ができるし、教師と生徒との関係も楽しいかなと思いました。大学もそれに合った大学をと考え、全日本としてバスケットボールで有名であり、多くの教員を輩出している東京教育大学(現筑波大学)を選びました。
 大学へは将来指導者になる為のバスケットボールの勉強をしようと言う目的で入ったので、監督・コーチの話を聞いたり、マネージャー的な事をしていました。4年の頃には、アシスタントコーチ的な事もさせてもらっていました。監督・コーチがいない時には、私が学生に対して指
示を出したりしていましたね。
 当時、バスケットボールは人気があり、東京オリンピックでもベスト10に入っていたし、その時の全日本の監督が、東京教育大学の吉井四郎さんでした。東京教育大学は有名選手は入って来ないんだけど、不思議と4年の内に成長して有名な選手を多く輩出していた事からも、東京教育大学は好きだったですね。

質問:教師になってからのバスケットボールとの関係はどのようになって行ったのですか?
安形先生:鳳来寺高校に新任として入った訳ですが、もちろんバスケットボール部の顧問をしました。
 あの頃はどこでもバスケットボール部があり、東栄町の本郷高校でも、田口稲武分校や作手分校にも、夜間高校にもありました。
 その後も、豊丘高校・時習館高校・国府高校・豊橋東高校と豊橋近隣の高校に赴任できて、とても恵まれていたと感謝しています。
 また、生徒指導に苦労している教員が多いのですが、赴任した高校全てが落ち着いた・おとなしい・まじめな校風で、大きな苦労をしたという記憶がありません。ここでも恵まれていたなと思います。
 国府高校には教頭として赴任したので、この頃からバスケットボールとは少し離れてしまいましたね。教頭などの管理職はいつ何があるか判らないので、部活動の顧問はできなかったのです。
 教師生活最後の年の平成18年度は東高校の教頭をしていたんだけど、たまたま転勤でバスケットボール部の顧問がいなくなってしまい、同僚からも頼まれ、校長も快く了承してくれたので、コーチを6月から退職した後5月までの1年間引き受ける事ができ、とても良い思い出になりました。7年ぶりの顧問で、昔に戻ったみたいで楽しい1年を過ごせましたね。

豊丘高校は強かったよ。

質問:東三河大会の優勝回数24回を数える成績を残されて、今年豊橋市の体育功労賞を受賞されたそうですが、豊丘高校での部活動時代の話を聞かせて下さい。
安形先生:豊丘高校は強かったよ。私が赴任した頃は、指導者がいなくて生徒達が自主的に行っていたという状態でした。男子は私が入っても最初は自分達のやりたいようにやらせてくれと言っていたね。女子は初めから私に付いて来てくれました。
 次第にチームが強くなってきて、県の上のほうで名が知られるようになり、男女とも東三河大会で優勝するにまで成長しました。
 その頃、愛知県でのインターハイ開催が計画され、その為に強化しようと言う事で、県で1年生大会が行われました。その時、昭和56年だったと思いますが、県で男子は名電に決勝で敗れ2位、女子も3位になったと記憶しています。
 でもなぜ、当時の1年生が3年生になった時に勝てなかったのか?これは下から選手が入ってこなかった為でした。
 試合で勝つ為にはバスケットではできる選手が少なくとも8人は必要です。その当時5人はいたんだが、6人目以降がいなかった。その上、背の高かったセンターの選手が両足捻挫でチームを去ってしまった。インターハイに出場できるチャンスだったんだが、残念だけれど選手の故障と選手育成の失敗で夢が叶いませんでした。
 それ以降も、東三河大会で勝つか(優勝)負けるかの勝負をしていたし、豊丘高校は強かったですね。
 その後に赴任した時習館高校も一定のレベルの部員が集まっていたので、良い成績を残す事ができました。

諦めた事は無い。必ず強くなると信じていた。

質問:ここでバスケット部の頃の話を16回生の植田(旧姓:加藤)さんより聞いていますのでお答え下さい。

植田:先生の第一印象は厳しい先生とは思いもしなくて、目の大きな楽しそうな先生だなと思いました。また、先生の厳しい一面は、バスケットの練習に関わる全てで、中でも忙しい時は、机を体育館に持ってきて、練習を監視していました。
安形先生:期末テストの後、練習も見なくてはいけないし、自分の担当の保健体育のテストの採点も早く出さなくてはいけない、体育教官室でやっていては、時間がもったいないと言う事で、机を持ってきていたのでしょう。常にお互いが顔を見えるところにいることで、選手はいやだったでしょうが、私は安心していられたと思います。

植田:
厳しい練習として、徹底的な部分練習、粘り強さを身に付けるため、倒れるまで続ける反復練習などをやらされました。
安形先生:練習は厳しかったので生徒は体力的に辛かったと思います。女子は朝練をやっていたかな。男は性格上朝練は出来ないと思ったので、最初からやらなかった。女性は内に
持ったエネルギーってものがあるものだから、疲れても絞れば絞っただけ動ける。男は一旦疲れると動けなくなるんでね。女性の方が、精神的にも肉体的にも粘り強いですね。

植田:先生の優しい点として、夏合宿の時のリポビタンDの差し入れや、引退試合の時に、にぎり寿司をごちそうしてくれました。
安形先生:女子は合宿は刈谷にある日本電装に僕の大学の同級生が福利厚生部門にバスケット部の将来のコーチとして就職していて、そこへ行ってやらしてもらった。男子は西岩田にある教職員住宅で、六畳二間に四畳半一間とダイニングキッチンとお風呂があり、十数人を泊めて合宿をしました。
 また、毎年春休みには静岡県へ遠征し、男子は静岡高校、女子は清水西高校で他校との練習試合を行っていました。

植田:先生へ三つの質問があります。
1.地区大会優勝までに育てるポイントは?
2.思うように育たない時、もうここまで・・・とあきらめた事はありますか?
3.先生が自ら練習に行きたくないなーと思ったことは?
安形先生:諦めた事は無い。生徒が一生懸命やってくれるから、必ず強くなると信じていた。逆にいつの間にか強くなって、あれあれと言う間に優勝してしまった年もあった。本当にこいつら良くがんばったと感心したこともあったね。
 加藤の時代は、五並中学校から二人きていて、その子たちは中学時代バスケットボールをほとんどやった事が無くて、メンバーを見ると中心校(羽田中、中部中)の人がほとんどいなくて、でも新人戦にはなぜか勝ってしまうんだね、そして成長して東三河で優勝してしまったんだ。当事者は、何で自分達が勝てたのか不思議に思っていたのかもしれないな。
 バスケットって意外と役割が大切なんだね、5人の中で自分の役割に忠実に動けるようになり、ある程度のテクニックが身に付いてくれば、チームとして勝てるようになってくる。だから、何でもできる子はそういらない。この子はどんな動きをすれば良いのか考えていた事は確かだったかな。
 試合では、メンバーを最上級生だけにせず、下級生を必ず一人は入れてスタートメンバーを決めた。それは、下級生に経験をさせて育てるためで、バスケットはメンバー交代が自由にできる競技なので、そんなこともしたな。

植田:部活を引退した時は、これで怒られないとうれしかったのですが、卒業してから先生のすばらしさがわかりました。通称「あんぎゃー」だったのですが、卒業後は尊敬の気持ちから「安形先生」としか言えなくなりました。
安形先生:同僚に「安形さん、あんた生徒からなんて言われているかしってるか?」と言われ、「さー?」と応えたけど。
 『修学旅行で聞いていると、「あんぎゃー、あんぎゃー」って聞こえて、「だれだー」って聞いたら、黙りこくってしまった奴がいて、バスケットボール部のやつでなー』なんて事を聞いたことがある。僕の聞こえないところで皆で言っていたんじゃないかな、日頃のはらいせに。

質問:全国的にミニバスケットボールが盛んに行われていますが、ミニバスケットに付いて教えて下さい。
安形先生:バスケット経験者の親御さんで、子供にバスケットボールをやらせたいと言う人が中心となって、次第に、各地区で夜小学校の体育館で決まった日時で練習するからと言う事で始まりました。豊橋ミニバスケットボール連盟が発足して20年目になりますが、その数年前から実際には同好会の様な形から活動は始まっていました。
 ミニバスに使うボールはやや小さく、リングの高さは低い、プレーヤーの人数は5人で変わらないんだけど、試合になるといろいろなルールがあって、1試合中に同じメンバーが出ていてはだめで、メンバー交代をして、全員が出なければいけないルールになっている。メンバーを固定すると、せっかくやっていても意味が無いと言う事になるからです。

今は体力気力の充電期間

質問:先生の今後の夢や目標をお聞かせ下さい?
安形先生:今は僅かにミニバスケットでバスケットと繋がっているが、これからいろいろな所で機会が有ったら、バスケットに深く関わって行きたいなと言う気持ちはあります。
 ちょっと今はバスケットから遠ざかって寂しいと思っているが、今は体力気力の充電期間と思って過ごしているんだ。職に就いた出だしもバスケットだったし、僕は一生バスケットと絡みながら、生活して行くのが自分の人生かなっと思っているよ。

安形先生、そしてバスケット部OGの植田さん、取材協力ありがとうございました。お二人のバスケットボールに対する特別な愛情を感じる事が出来ました。これからも、バスケットボールへの愛情を大切にしてお過ごし下さい。(広報委員17回生加藤)

トラックバック

このページのトラックバックURL:
http://bb.lekumo.jp/t/trackback/401668/18444488

安形冨美利先生を参照しているブログ:

コメント

コメントを投稿