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2009年2月 6日 (金)

渡邉耕造先生

【プロフィール】
昭和42年教員となり知立商業高校赴任。その後昭和46年に豊丘高校へ転任し、以来退職までの33年間在職。現在も非常勤講師として豊丘高校に在職中。

Watanabe_2 郷土の伝統を重んじる根っからの豊橋人

質問:まず渡邉先生の現在をお聞かせ下さい。
渡邉先生:自分では若いと思っていましたが,今年63歳となり年金生活者となってしまいました。
 今年は非常勤講師として,和太鼓部の顧問として豊丘高校に現在もおります。

質問:和太鼓部の顧問をされているそうですが、どのような活動をされていますか?
渡邉先生:平成4年創立30周年記念式典の事業として発足した和太鼓と関わって15年となります。
 特に今年は忙しかったが充実した1年でした。部員は大変だったと思いますが。7月にはカナダ・ドラモンドビルで開催された第25回ドラモンドビル文化芸術祭に日本の代表として,3回目の海外交流。そして今年,豊橋市制施行100周年事業として豊橋球場でおこなわれた,喜多郎ミュージックコンサートに於ける合同演奏。8月1日には記念式典に於ける合同演奏。そして12回目の全国大会への出場(京都城陽市:全国高
校総合文化祭郷土芸能部門発表大会)等20回を超える演奏の機会がありました。
 毎年太鼓演奏を通じてのボランティア活動,地域事業等を中心に活動しています。

質問:先生の趣味に付いてもお聞かせ下さい。
渡邉先生:趣味というか。豊橋の伝統的な祭りの一つである「手筒花火」。竹取から奉納までの1ヶ月間,命がけで関わる男の祭りは最高です。手筒花火は「男のロマン」ですね。もう24年になります。
 もう一つは旅行です。全国の祭りを見て廻りたいですね。

バレーボール顧問としての二十一年間

質問:渡邉先生と言えば「女子バレーボール顧問」と誰しも思い出しますが、印象に強い学年のお話をお聞かせ下さい。
渡邉先生:豊に来てからの一年一年想い出が詰まっていますが,何と言っても赴任した昭和46年6月1日から女子バレー部顧問となり全国大会初出場までの4年間ではないでしょうか。特に1年目25人程の部員が半年足らずの間に12人迄になってしまったが,その12人が今日の豊丘高校女子バレーボール部の基盤を築いてくれたと言えます。
 毎日が生徒との根競べでした。今になって思えば,かなり私の我がままを我慢して聞いて付いてきてくれたと思います。119名の素晴らしい選手のお陰で,今の私があるといえます。
 と言っても現在は和太鼓部の顧問ですが・・・。「素晴らしい思い出をありがとう。」

質問:強さの秘密は「厳しい練習」にあったと聞きますが、その練習内容に付いてお聞かせ下さい。
渡邉先生:当時の愛知県高校女子バレー界は私学王国で,7連覇・失セット0の岡崎女子(現人間環境大学岡崎学園),常連2位の名古屋短期大学付属高校(現桜花学園)が双璧でどちらかを打ち破らなければ全国への道はなかった。そのためには負けられない,負けない指導・練習しかなかったのです。
 時には試合に負けて試合会場から学校まで走って帰らせたことも・・・。でも厳しいことばかりでなく,勝った時にはそれなりの歓びを。つまり「飴と鞭」ですかね。鞭の部分に尾ヒレが付いて・・・。ほんとは仏の渡邉でしたのにネ。
 また家庭においては選手と共に生活,そのためには妻も子供も協力してくれた,と言うよりさせたといった方が正解かも。家庭崩壊もなく,よくもったものですネ。この先わかりませんが・・・。
 今はただ感謝。静かに余生を送っている「やさしいおじいちゃん」です。

今後も豊丘高校との関わりの中で過ごしたい

質問:豊丘高校と他校を比較して、豊丘らしさと感じることはどの様な事ですか?
渡邉先生:うぅ・・・難しい質問ですね。豊を入れて三校しか経験していませんので。
 よく言えば明るくてのびのびしているところかな。特に女子の元気がいい。悪く言えばのんびりしていてややだらしなさ,けじめのなさが最近目に付く。
 しかし,見た目より素直な生徒が多いかな。

質問:今後の目標を聞かせて下さい。
渡邉先生:そうですね。あと何年生徒と関われるか分かりませんが,全国高校総文祭郷土芸能部門大会で上位入賞を果たし,国立劇場での太鼓演奏を実現させてやりたいですね。一生懸命練習しているだけに。

取材協力ありがとうございました。これからも在校生へのご指導よろしくお願いします。(広報委員17回生加藤) 

安形冨美利先生

【プロフィール】
昭和46年教員となり鳳来寺高校赴任。その後昭和51年に豊丘高校へ転任し、保健体育教諭として8年間を豊丘高校で過ごす。その後、時習館高校へ転任、今年3月に退職。

Agata_pic バスケットボールに関わって一生を過ごしたい!

質問:先生は3月に退職されたそうですが、現在はどのように過ごされていますか?
安形先生:今は健康の為に、午前中スポーツクラブに行って運動し、午後は自由に過ごす生活をしています。
 これと言った趣味はありませんが、まあ、バスケットボールが趣味みたいなものです。これまで豊橋バスケットボール協会の監事をしていましたが、今年から協会の傘下である、豊橋ミニバスケットボール連盟の会長になりました。今年6月初旬には、豊橋バスケットボール協会主催のミニバスの招待試合があり、招待チームとして、三重県・岐阜県代表、県内では名古屋市・西尾市・岡崎市・豊田市などから参加していただき豊橋総合体育館で行われました。
 今はコーチとして教えてはいませんが、機会が有ったらコーチとして教えたいと思っています。

質問:安形先生と言えば、バスケットボール部顧問の印象が強いのですが、先生とバスケットボールとの出会いはどのような事だったのですか?
安形先生:私が高校生の時、何気なくバスケットボール部に入ったのがきっかけです。
 私の田舎は、鳳来町の海老と言う所なんですが、豊橋の時習館高校に進学することになり、豊橋で下宿を始めました。その下宿先がバスケットボール部OBの先輩の家で、このお世話になった先輩の影響もあって、バスケットボールに関わって一生を過ごしたいなと思い始めた事を覚えています。
 それを考えた時に将来の職業は教員が良いと考えました。年をとっても教える事ができるし、教師と生徒との関係も楽しいかなと思いました。大学もそれに合った大学をと考え、全日本としてバスケットボールで有名であり、多くの教員を輩出している東京教育大学(現筑波大学)を選びました。
 大学へは将来指導者になる為のバスケットボールの勉強をしようと言う目的で入ったので、監督・コーチの話を聞いたり、マネージャー的な事をしていました。4年の頃には、アシスタントコーチ的な事もさせてもらっていました。監督・コーチがいない時には、私が学生に対して指
示を出したりしていましたね。
 当時、バスケットボールは人気があり、東京オリンピックでもベスト10に入っていたし、その時の全日本の監督が、東京教育大学の吉井四郎さんでした。東京教育大学は有名選手は入って来ないんだけど、不思議と4年の内に成長して有名な選手を多く輩出していた事からも、東京教育大学は好きだったですね。

質問:教師になってからのバスケットボールとの関係はどのようになって行ったのですか?
安形先生:鳳来寺高校に新任として入った訳ですが、もちろんバスケットボール部の顧問をしました。
 あの頃はどこでもバスケットボール部があり、東栄町の本郷高校でも、田口稲武分校や作手分校にも、夜間高校にもありました。
 その後も、豊丘高校・時習館高校・国府高校・豊橋東高校と豊橋近隣の高校に赴任できて、とても恵まれていたと感謝しています。
 また、生徒指導に苦労している教員が多いのですが、赴任した高校全てが落ち着いた・おとなしい・まじめな校風で、大きな苦労をしたという記憶がありません。ここでも恵まれていたなと思います。
 国府高校には教頭として赴任したので、この頃からバスケットボールとは少し離れてしまいましたね。教頭などの管理職はいつ何があるか判らないので、部活動の顧問はできなかったのです。
 教師生活最後の年の平成18年度は東高校の教頭をしていたんだけど、たまたま転勤でバスケットボール部の顧問がいなくなってしまい、同僚からも頼まれ、校長も快く了承してくれたので、コーチを6月から退職した後5月までの1年間引き受ける事ができ、とても良い思い出になりました。7年ぶりの顧問で、昔に戻ったみたいで楽しい1年を過ごせましたね。

豊丘高校は強かったよ。

質問:東三河大会の優勝回数24回を数える成績を残されて、今年豊橋市の体育功労賞を受賞されたそうですが、豊丘高校での部活動時代の話を聞かせて下さい。
安形先生:豊丘高校は強かったよ。私が赴任した頃は、指導者がいなくて生徒達が自主的に行っていたという状態でした。男子は私が入っても最初は自分達のやりたいようにやらせてくれと言っていたね。女子は初めから私に付いて来てくれました。
 次第にチームが強くなってきて、県の上のほうで名が知られるようになり、男女とも東三河大会で優勝するにまで成長しました。
 その頃、愛知県でのインターハイ開催が計画され、その為に強化しようと言う事で、県で1年生大会が行われました。その時、昭和56年だったと思いますが、県で男子は名電に決勝で敗れ2位、女子も3位になったと記憶しています。
 でもなぜ、当時の1年生が3年生になった時に勝てなかったのか?これは下から選手が入ってこなかった為でした。
 試合で勝つ為にはバスケットではできる選手が少なくとも8人は必要です。その当時5人はいたんだが、6人目以降がいなかった。その上、背の高かったセンターの選手が両足捻挫でチームを去ってしまった。インターハイに出場できるチャンスだったんだが、残念だけれど選手の故障と選手育成の失敗で夢が叶いませんでした。
 それ以降も、東三河大会で勝つか(優勝)負けるかの勝負をしていたし、豊丘高校は強かったですね。
 その後に赴任した時習館高校も一定のレベルの部員が集まっていたので、良い成績を残す事ができました。

諦めた事は無い。必ず強くなると信じていた。

質問:ここでバスケット部の頃の話を16回生の植田(旧姓:加藤)さんより聞いていますのでお答え下さい。

植田:先生の第一印象は厳しい先生とは思いもしなくて、目の大きな楽しそうな先生だなと思いました。また、先生の厳しい一面は、バスケットの練習に関わる全てで、中でも忙しい時は、机を体育館に持ってきて、練習を監視していました。
安形先生:期末テストの後、練習も見なくてはいけないし、自分の担当の保健体育のテストの採点も早く出さなくてはいけない、体育教官室でやっていては、時間がもったいないと言う事で、机を持ってきていたのでしょう。常にお互いが顔を見えるところにいることで、選手はいやだったでしょうが、私は安心していられたと思います。

植田:
厳しい練習として、徹底的な部分練習、粘り強さを身に付けるため、倒れるまで続ける反復練習などをやらされました。
安形先生:練習は厳しかったので生徒は体力的に辛かったと思います。女子は朝練をやっていたかな。男は性格上朝練は出来ないと思ったので、最初からやらなかった。女性は内に
持ったエネルギーってものがあるものだから、疲れても絞れば絞っただけ動ける。男は一旦疲れると動けなくなるんでね。女性の方が、精神的にも肉体的にも粘り強いですね。

植田:先生の優しい点として、夏合宿の時のリポビタンDの差し入れや、引退試合の時に、にぎり寿司をごちそうしてくれました。
安形先生:女子は合宿は刈谷にある日本電装に僕の大学の同級生が福利厚生部門にバスケット部の将来のコーチとして就職していて、そこへ行ってやらしてもらった。男子は西岩田にある教職員住宅で、六畳二間に四畳半一間とダイニングキッチンとお風呂があり、十数人を泊めて合宿をしました。
 また、毎年春休みには静岡県へ遠征し、男子は静岡高校、女子は清水西高校で他校との練習試合を行っていました。

植田:先生へ三つの質問があります。
1.地区大会優勝までに育てるポイントは?
2.思うように育たない時、もうここまで・・・とあきらめた事はありますか?
3.先生が自ら練習に行きたくないなーと思ったことは?
安形先生:諦めた事は無い。生徒が一生懸命やってくれるから、必ず強くなると信じていた。逆にいつの間にか強くなって、あれあれと言う間に優勝してしまった年もあった。本当にこいつら良くがんばったと感心したこともあったね。
 加藤の時代は、五並中学校から二人きていて、その子たちは中学時代バスケットボールをほとんどやった事が無くて、メンバーを見ると中心校(羽田中、中部中)の人がほとんどいなくて、でも新人戦にはなぜか勝ってしまうんだね、そして成長して東三河で優勝してしまったんだ。当事者は、何で自分達が勝てたのか不思議に思っていたのかもしれないな。
 バスケットって意外と役割が大切なんだね、5人の中で自分の役割に忠実に動けるようになり、ある程度のテクニックが身に付いてくれば、チームとして勝てるようになってくる。だから、何でもできる子はそういらない。この子はどんな動きをすれば良いのか考えていた事は確かだったかな。
 試合では、メンバーを最上級生だけにせず、下級生を必ず一人は入れてスタートメンバーを決めた。それは、下級生に経験をさせて育てるためで、バスケットはメンバー交代が自由にできる競技なので、そんなこともしたな。

植田:部活を引退した時は、これで怒られないとうれしかったのですが、卒業してから先生のすばらしさがわかりました。通称「あんぎゃー」だったのですが、卒業後は尊敬の気持ちから「安形先生」としか言えなくなりました。
安形先生:同僚に「安形さん、あんた生徒からなんて言われているかしってるか?」と言われ、「さー?」と応えたけど。
 『修学旅行で聞いていると、「あんぎゃー、あんぎゃー」って聞こえて、「だれだー」って聞いたら、黙りこくってしまった奴がいて、バスケットボール部のやつでなー』なんて事を聞いたことがある。僕の聞こえないところで皆で言っていたんじゃないかな、日頃のはらいせに。

質問:全国的にミニバスケットボールが盛んに行われていますが、ミニバスケットに付いて教えて下さい。
安形先生:バスケット経験者の親御さんで、子供にバスケットボールをやらせたいと言う人が中心となって、次第に、各地区で夜小学校の体育館で決まった日時で練習するからと言う事で始まりました。豊橋ミニバスケットボール連盟が発足して20年目になりますが、その数年前から実際には同好会の様な形から活動は始まっていました。
 ミニバスに使うボールはやや小さく、リングの高さは低い、プレーヤーの人数は5人で変わらないんだけど、試合になるといろいろなルールがあって、1試合中に同じメンバーが出ていてはだめで、メンバー交代をして、全員が出なければいけないルールになっている。メンバーを固定すると、せっかくやっていても意味が無いと言う事になるからです。

今は体力気力の充電期間

質問:先生の今後の夢や目標をお聞かせ下さい?
安形先生:今は僅かにミニバスケットでバスケットと繋がっているが、これからいろいろな所で機会が有ったら、バスケットに深く関わって行きたいなと言う気持ちはあります。
 ちょっと今はバスケットから遠ざかって寂しいと思っているが、今は体力気力の充電期間と思って過ごしているんだ。職に就いた出だしもバスケットだったし、僕は一生バスケットと絡みながら、生活して行くのが自分の人生かなっと思っているよ。

安形先生、そしてバスケット部OGの植田さん、取材協力ありがとうございました。お二人のバスケットボールに対する特別な愛情を感じる事が出来ました。これからも、バスケットボールへの愛情を大切にしてお過ごし下さい。(広報委員17回生加藤)

2009年1月30日 (金)

石川亮二先生

【プロフィール】
昭和37年教員となり東京私立高校に赴任。その後、昭和40年に愛知県に戻り津島高校に転任。豊丘高校へは国語教諭として昭和47~61年と平成3~11年の2度、合計22年間在職。平成11年に退職され、現在自宅にて詩の執筆を行う。

Ryoji_pic生活が変わったとは思わない

質問:先生の現在の状況をお聞かせ下さい。
石川先生:教師としての仕事からは引退しましたが、別のものに重点が移りました。しかしそれは以前から継続してやっていたことなので、根本的な変化はありません。詩やエッセイを書<ことや、本を読むことには終わりはありません。ただ時間的な余裕ができましたので、退職した同年ぐらいの人たち4~5人で読書会をやっています。「若いときに文学全集など買ってはみたが、ほとんど読まずに過ぎてしまった。何か読んでみたい」という人がいて、「それじゃ読書会をしましょう」ということになり、もう4年ぐらいつづいています。いまのところ鷗外、漱石、芥川などを取り上げています。

質問:その読書会とは、どの様に進めるのですか?
石川先生:たとえば漱石の「草枕」(一部)や、芥川の「羅生門」なんか、私たちの高校生の頃から教科書に出ていましたが、改めて読んでみると、いろんな新発見があります。それは私たちが年齢を重ね、人生のいろんな局面を通って、経験の蓄積あるからだと思います。
 かたくるしい話ばかりしているわけではありません。鷗外や漱石のときは「文学散歩」なども取り入れ、食事したり、雑談したり、歩いたりして楽しくやりました。気のあった人たちとの交流も、何かを媒介にすると長つづきします。そして近代文学をとおして、明治・大正・昭和とそれぞれの時代を生きてきた人びとの姿を知ることは、とても大事なことだと思います。

詩や小説を書いてみたい

質問:先生が文学に目覚めたのはどのような事があったのですか?
石川先生:16歳のとき、高校の図書館で梶井基次郎の小説集「城のある町にて」を読んで、たちまち「文学少年」になってしまった。当時、豊橋東高校には小説を書いていた英語の井澤純先生(後に文部省・教科調査官)や、やはり詩を書いていた岩崎宗治先生(後に名大教授・英文学)がいました。また国語の太田鴻村先生は俳人として中央の俳壇で有名な方でした。こうした先生方から文芸部の活動や、図書館などで、知らず知らずのうちに文学の手ほどき
を受けていました。今思えばぜいたくの限りだったのです。
 そのうちに私も、みようみまねで詩や小説ごときものをつくるようになり、それを文芸部の雑誌に載せていました。
 活字で自分の世界を表現することが、とても魅力的なものだと知りました。

質問:先生が職業として教師を選んだ理由をお聞かせ下さい。
石川先生:両親は小学校の先生でした。ただし母は結婚するまでの8年間。その影響があったかもしれませんが、何よりも休みがたくさんあって、自分の好きなことができそうに思いました。大学では国文科に進み、近代文学(詩)を専攻しました。講義は古代(奈良・平安)、中世(鎌倉・室町)のものが多くあり、目まぐるしく変転した中世の時代の文学に関心がありました。

質問:大学時代の様子をお聞かせ下さい。
石川先生:私が学生の頃は、敗戦からの復興が15年ほどで一段落し、「戦後社会」が大きく転換していく時代でした。私たちはいわゆる「60年安保世代」です。その10年後が「全共闘世代」になります。この70年代もまた、戦後の地殻変動の激しかった時代でした。
 学生の数が増え、大学の大衆化が急速に始まっていました。それでもまだ、私たちの頃は大学・短大への進学率は同世代の4割に満たなかったと記憶しいてます。大学生になってからは、小説は太宰治のもの、近代詩人では萩原朔太郎や中原中也をよく読みました。また「戦後の詩」や「現代詩」に惹かれ、その関連で「文芸評論」や「詩論」にも関心を持ちました。「安保のデモ」にもいつも出かけていました。詩は書きつづけようと思っていましたが、小説はやめてしまいました。これは自分の向き不向き、自分が求めているものが、はっきりしてきたのかも知れません。

読書体験のすすめ

質問:それでは教員時代のお話を聞かせて下さい。ここからは、17回生の中村さんにも同席して頂きます。
中村さん:図書室で先生はこれを読めと勧めるのではなく、何でも良いから好きなものを読めって言われていました。
石川先生:そんなこともありましたね。図書館の係りは比較的長くしました。他には新聞部や文芸部の顧問をしていました。ともかく図書館が、宿題や受験問題をするだけの場所ではなく、本を読むことの楽しみ知る場所になってほしいと思っていました。私は強制的にあれこれせよと言うふうな「教師」にはなりたくない、といつも自戒していました。まして読書などは読む人の精神の自由さがなければなりません。それは試行錯誤のなかから、自分で見つけ出すしかありません。強制されたり、指示ばかりを求めていたのでは長つづきしません。
中村さん:私は先生の授業を受けた事がないけど、楽譜のコピーをしに行ったのかしら、本の好きだった同級生がいて先生とワイワイ話していたのを覗いたら「お前も入れ」と言われて入った記憶があります。
 読書会のメンバーは女子5、6人(ヤスヨ、リュウアン、ナオコ、ナッコ、バーチャン、・・・)ぐらいと、男子2人がいました。漱石を取り上げて読んでいて、図書館だよりに感想を書いたりしていました。そう言えば先生、都合のつくメンバーで鳳来寺山に、先生の子供を二人連れて弁当持って登りに行った事がありましたよね。
石川先生:そうそう、遠足みたいなこともしてね。大学時代の友人が、長野・戸隠で民宿をやっていたものだから、いつか機会があったら行こうなどと言っていましたが、これは実現しませんでした。豊丘に来る前の学校では、ワンゲル部の顧問もしていましたので、14、5人の部員を戸隠へ連れて行ったことがありました。生徒はキャンプ場のテントで、顧問たちは民宿で泊りましたが……(笑)。
 学校群制度になってからは、一段と受験競争が学校全体の課題となってきました。大学入試も「共通一次」(センター試験の前身)が導入され、その後で各大学で二次試験(記述)をするようになりました。その頃から受験生の個性的な能力を評価する一環として、資料や文章や課題を提示して小論文を書かせる(理系も文系も)ところが増えてきました。専門性のある論述が要求されるようになり、そのために「岩波新書」などを借りに来る生徒や、何をどう読んだらいいか相談に来る生徒も増え、別な意味での図書館の役割りが求められました。
 
生きる力をつけてほしい

質問:教師として生徒に伝えたかったメッセージはありましたか?
石川先生:私は教師になったときから、退職するまで「普通の教員」でいようと決めていました。そうした姿勢が影響したかどうかわかりませんが、生徒のみなさんとは、普段わりと気楽に接することができました。卒業してからもいろんな相談に来てくれる人もいます。
 大それたメッセージはありませんが、一言で言えば「生きる力(意志や能力)」を高校時代につくってほしいと願っていました。それは「柔軟でしかも強い生き方」のことかもしれません。まあ、なんとなく私の生き方のスタイルを見て参考にしてもらえばいいかな、とも思っていました(笑)。

質問:先生の執筆活動に付いてお聞かせ下さい?
石川先生:詩を書くことは楽しみでもありますが、表現しようと思うことと、出来上がったものの間にはいつも隔たりがあって、これでいいと思ったことは一度もありません。詩集は三冊つくりました。若い時からのをまとめた『仮幻沼(かげんぬま)』(91年)、『水に散る日々』(99年)、『深夜の食卓』(02年)です。
 私の詩は「具体的な『体験』の水準で把握される対象と、主体が定位しようとする詩的言語の場が交錯するところに、きらめくような詩的時空間が立ち上がる」(『現代詩手帖』「詩書月評」99.8)と批評されました。これはよく読んでくれた上での批評だったと、いまでも思ってい
ます。
 もうーつ、フランス語を自分でぼつぼつ勉強して、ランボーの詩集『イリュミナシオン』(04年、私家版)の翻訳をしました。ランボーの詩は高校生の時から親しんでいました。辞書と英訳本をたよりにやってみましたが、これは結構骨が折れました。でも、異言語とぶつかって日本語を考え直す、という経験をしました。

Kagennuma 質問:先生のこれからの目標を聞かせて下さい。
石川先生:これは2、3年前から準備していますが、新しい詩集を出します。詩集名は『遠ざかる朝』にしようか、『夏の果て』にしようか迷っているところです。それとエッセイ集も一冊つくることにしています。こちらは100枚ほど原稿が出来ています。あと150枚ぐらい書き足そうと考えています。
 それと健康でいることと、ボケないようにしたいですね(笑)。今日はありがとうございました。卒業生のみなさんも、幸せで充実した人生をすごして下さい。

水仙「月夜の道」

あの坂の上までと夢に誘われ
月夜の道を急ぐ
一筋の愁いのようなものをかきわけ
迷妄の棘をたしかに飛び越え
しゅん巡する闇の底をくぐると
そこはほの明るい水仙の咲き乱れる
仮象の器に沈む透明な淵

それにしてもあっけなく
どうしてたどり着いたのか
振り返れば常夜燈一つぼんやりと灯り
坂は途中から消えていた

先生の詩集とエッセイ集が出来上がるのを楽しみにしています。お体に気をつけてお過ごし下さい。17回生の中村さん取材協力ありがとうございました。(広報委員:17回生加藤)