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石河貫治さん(24回生)

豊橋市議会議員

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【プロフィール】
 2014年国会議員公設第一秘書となり、政治について学び始め、2019年豊橋市議会議員選挙で当選、現在2期目を迎える。キャッチコピーは「豊橋にもっと恋したい」。子育て、小さいな企業・商店支援、災害対策を3本柱に、市民の生の声を市政に届ける代弁者を目指す。

【子供のころ】
 子供の頃はインドア派で、家が肉屋をやっていたので小学校上がるまではおばあちゃん子だったです。小学校に上がると平日は習い事に行かされました、書道、そろばん、スイミングスクール、英会話など、塾では友達と遊んでる感覚でした。
 それと休日は、親父が釣り好きだったので毎週のように連れていかれてました。それに、学校が終わってから習い事まで時間があったので、大池に寄って小学校の給食で出たパンを餌にして釣りをしていました。

【中学校で水泳部に】
 弓道をやるつもりでしたが、先輩から「お前スイミングスクール通っているんだってな、お前は水泳部だからな。」と言われて、「はい」と言ってしまいました。
 肉屋の配達で重い荷物を運ばされて、それが筋トレになって体も大きい方だった。泳いでみたら、あれ意外とみんなより泳げる。背の大きさも小学校の6年の時160cmを超えていました。全然自分に自信が無かったのが、自信を持ってやれることがあるんだと気づかせてもらいました。一つ自信が持てると他にも影響が出て、勉強でも英語が好きなんだ理科が好きだなって、忙しい中でも勉強をやるようになりました。
 高校受験は2群だったら豊丘か東なのでどっちも近いし、なおかつ豊丘には水泳の指導で凄い有名な永井先生が見えたんで、水泳もやりたいので豊丘に行きたいなと思い、2群を選んだら運良く豊丘に入ることができました。

【豊丘高校に入って】
 中学から400メートル自由形をやっていましたが、一つ上の先輩の後継としてバタフライの選手に選ばれました。バタフライはクロールと比べると格段に競技人口が少ないので、入賞できる確率も高いので表彰状を貰う事もありました。
 高校の頃は本当に体がでかかったです。身長は172,3cmぐらいで体重は80kg、高校入った時に「お前プロレスラーか」と先輩から言われるくらいで。首が太くて既製品の学生服が入らなくて、股周りがりが競輪選手と同じくらいで67センチありました。学校で体力テストをやると異常な数字が出て、懸垂で30何回とか、背筋の計測中に鎖が切れるとか、握力は右が100kg近かったのでリンゴを本気にぎゅっとやると潰れるほどでした。

【大学時代:人との出会い】
 愛知学泉大学の経営学部経営学科に進学して大学3年までは一人暮らししてました。豊丘の先輩がスポーツボックスをオープンするということでアルバイトで入らせてもらい、子供にスイミングを教えていました。最初どう接して良いか全然分からなかったですが、途中から楽しくなり、僕って子供好きなんだ、人に教えることができるんだということを気づきました。

Photo_8 知り合いの人に、就職先がまだ決まっていないんですという話をした時、本多電子も求人を出しているので受けてみたらどうと言われて就職試験を受けると、創業者の会長が面接もやってくれたんですけれども、「文系が受けにくるなんて未だかつて無い」と気に入っていただけて就職させてもらえました。

【人生の転機】
 本多電子に入社して、2年半か3年経過した頃、父親の糖尿病が発覚して、あまり良くないと聞かされました。このまま大阪に居ると、何かあった時に大丈夫か?また、水泳に対して未練があった事もあり本田電子を辞める決断をしました。そして、地元に帰りスポーツボックスに入社、アルバイトの経験もあり、すぐ中間管理職ぐらいになれたものですから、親にも納得してもらえました。
 大学時代にスポーツボックスで同じアルバイトで出会った彼女と、役職になれたのを機にプロポーズして結婚しました。豊川にアパートを借りて二人で暮らしている時に外から豊橋を見て感じたのが、「豊川の方が勢いがあるな、商店もイベントでも。豊橋って住むにはいい街だけど、何かつまらない。」と感じていました。
 子供が生まれたのを機に実家に帰りましたが、父が体を悪くしてしまい会社を辞めて店の整理をすることにしました。次の仕事を見つけようと思っていた頃、たまたま今の衆議院議員の根本幸典さんとその事務所の方があいさつ回りでお店に寄ってくれました。その後、「秘書をやっていた方が辞めるので後任を探している、石河さんどうですか。」と姉に声を掛けてくれて、うちの嫁に話をした時、嫁は私が市会議員になってという話を思えていて「あんた言うとったじゃん、いい機会だで」と言って背中を押してくれました。
 最初は見習いで入って秘書をやっている時に、根本さんが家族も招いて祇園花火を見る機会を作ってくれました。その席で「ああそうだった”豊橋を何とかしたい!”って言っていた。」と思い出し、そこから先は秘書をやりながら色々勉強させてもらって、それが下準備の期間だったと思います。

【市議会議員として】
 2018年の12月秘書を辞めて地元を回りながら、その後の選挙で立候補させていただきました。
 父親に続き妻も他界してしまい母親が細々と一人で肉屋をやっていましたが、母親も高齢だし肉屋を閉めて退路を断って立候補しました。
 とにかく初めての選挙なんで顔も名前も誰も知らないし、地元のみんな知らないから、まず投票してくれる前に知ってもらわなきゃ駄目だから、地元の向山校区を1軒1軒ピンポンして3周回りました。
 2019年の4月の選挙で当選させていただいて、「自分達よりも、自分達の次の世代とか、その次の世代が豊橋に住みたい、豊橋で生活したいと思ってもらえる町づくりをしていかなきゃいけない。」というふうに思っています。豊橋のことをもっと好きになってもらいたいという意味を込めて、私のキャッチコピーを「豊橋にもっと恋したい」にしました。気持ちがなければ動かない、自分自身の行動につながらない、いくら行動しても気持ちがなければ相手に伝わらないと思います。

【後輩たちへのメッセージ】
 自分が成長するためには、夢や目標をできるだけ具体的にイメージして欲しい。想いが行動に繋がります。そして、生きて行く中で夢や目標は変わっても良いと思っています。
 今年次男が大学受験生ですが、「どこの大学に行きたいかじゃなくて、そこから先で何をやりたいかを考えて」と言っています。進学が目標にならないように、そこから先の目標をしっかりと持って欲しいと願います。

17回生 加藤