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宮嶋政穂さん(5回生)

【プロフィール】
1972 大阪芸術大学で泉茂氏に師事
1976 大阪芸術大学 美術科卒業
1986 ホルベインスカラシップ奨学生
2012・2014 ニューヨーク・アートスチュデンツリーグの奨学金を得て、ヴィトラシーレジデンスで制作

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 【高校時代】
北設楽郡田口に生まれ田口中学校を卒業して、豊丘高校に入学しました。三輪で、先輩たちとの下宿生活が楽しくて、毎日遊びまわり勉強さっぱり、でした。僕の粗末な弁当を見て、同級生の伊澤徹くんが、「僕の家においでよ」と誘ってくれました。彼の家では腹いっぱい食え、本当に良くしてくれました。しかし、学校をずるで休んだり、飲酒喫煙などの癖が直らず、最後は親戚の家にあずけられてしまいました。柔道部、テニス部、美術部と部活にはお世話になりました。どの部活も楽しかったけど、美術部は特に楽しかった。栃久保先生が駅前の画廊で個展をしていて、スプレーガンを使ったわけのわからない展覧会をやっていたのを今も覚えている。まさか僕もそんなことをやるとは思ってもみなかった。

【大学時代】
僕は大阪芸術大学を卒業しました。その時面接をしてくれた、泉茂先生に、ものすごく影響を受けました。彼はスプレーガンを使い今まで見たこともない絵を描いていました。NYとパリで生活し、詩人で抽象画家 (当時はアンフォルメルと言いました) の津高和一先生により、大学に招聘されたばかりの国際的な作家でした。三年生から泉ゼミに入り本格的に絵を描きました。その当時、オイルショックが在りました。世界の美術の中心が日本に来るかもしれないと言った期待もあり、日本で絵を描こうと決心もしていました。四年生になって、とりあえず就職を探しました。サントリーと教職を受験しました。サントリーはだめでした。教職は大阪府と愛知県が合格しました。最初の希望は高校でしたが高校の採用はなく、中学に採用されました。僕は愛知県の中学校美術の教員になりました。

【絵描きと学校の先生】
大阪、名古屋、そして東京の貸し画廊で個展をしつづけました。40歳前後には多くの個展で美術手帳にとり上げられ、それなりに全国的に知られるようになり、作品を扱ってくれる画廊もできました。教師をやめて、絵描きだけで生きていこうとした矢先にバブルが崩壊しました。
当初どうでもよかった教員の仕事は実は楽しかった。特に問題を抱えた子との付き合いが楽しかった。勉強しない子は昔の僕。悩む子どもは昔の僕。いい加減な子どもも昔の僕。反抗する子どもも昔の僕。また、逆に子どもに教えられることも多かった。夜遅くまで子どもや親と話し合った。また、夜遅くまで家に帰らない子を探すなど。時間をわすれて子どもや親と付き合った。自分の子どもたちはそうした僕の様子がよほど楽しく見えたのか、娘も息子も中学校の美術教師になった。今、二人とも楽しくやってます。
でも、60歳の定年はすごく待ち遠しかった。退職の年にNYのアートスチュデンツリーグのレジデンスから奨学金をもらい、退職後、すぐ留学しました。アメリカNYの有名な抽象の作家はほとんどが、アートスチュデンツの卒業生か先生なんです。NYスクールは僕の時代のあこがれでした。アメリカNYでは、アートスチュデンツの先生であり尊敬する作家のグレース・ノートン (60年代のアメリカを代表する抽象画家) が最初に僕の絵を買ってくれました。日本でいえば、草間弥生みたいな人です。多分2人は知り合いです。また、NY最後の巨匠と言われるノックス・マーチンも作品を見に来てくれました。僕も彼のアトリエに招待されました。その後レジデンスで制作した約半数が売れました。泉茂先生が、卒業の時、「NYやパリなら絵で生きて行けるよ」と言ってくれた35年前の言葉は本当でした。若い時にNYに行っちゃえば良かったと、ちょっと後悔しました。
でも、この泉先生の言葉は僕にだけじゃなく、多くの泉ゼミの先輩や後輩にも言っていたのが現地で分かりました。NYで、偶然泉ゼミの後輩日置くんに会いました。ゆっくり話して、2人でびっくり! 彼はイエロースラントと言うNYCでは有名なコミックバンドのリーダーで絵描きでした。僕と同じことを泉先生に言われ、NYに来たそうです。結局、泉先生も日本では食えなくて、NYやパリで画家として生活できたんだと悟りました。日本じゃ先生!

【今後の予定】
やっぱり、何とか画家として生きていきたい。昔、学生時代に女房とデートで心斎橋に行きました。その時、街角の占師に500円払って聞いた僕の人生は、「 74歳で画家として死ぬ 」でした。その時すごくうれしかった。今63歳です。多分あと10年ぐらいは、健康に生きて行けそうなので頑張って画家として死にます。皆さんも応援してね (笑い)

【最近の仕事】
僕は、今年2015年1月17日(土)~2月22日(日)「豊穣なるもの」愛知トリエンナー地域関連事業(豊川市桜ケ丘ミュージアム)に参加しました。

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2015 
愛知トリエンナーレ地域展開事業
(豊川市桜ケ丘ミュ-ジアム)




僕は、今年2015年1月17日(土)~2月22日(日)「豊穣なるもの」愛知トリエンナー地域関連事業(豊川市桜ケ丘ミュージアム)に参加しました。
現代美術の愛知県主催の国際展の一環として開かれていて、世界で活躍しそうな若い作家とも友達になり、すごく有意義でした。

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Nirvana2014,2015
H2.8m x L6m Acrylic on canvas





【僕の絵についての思いの簡単な説明】
僕は、1990年以後、PHANTOM (お化けと言う題) でインスタレーション (室内空間作品にしようとするもの) を絵にしようと試行をし続けました。長谷川等伯の「松林図」の前に立つと、絵の中に入り込む感覚がいつもあったからです。僕は屏風を日本のインスタレーションと考えていました。2009年にnirvana涅槃 ”Blow out” 「吹き、消す」というコンセプトと出合いました。2009年に長谷川等伯の大涅槃図の涅槃の意味を検索した時の発見でした。
僕はPHANTOMの時代から、濡らしたキャンバスに絵具を吹き付け、湿った布で拭き消す方法で図柄を描いてきました。私のコンセプトnirvanaでは、絵の具を吹き付けること,消すことそのものが表現になったのです。方法は同じでも、nirvanaは表現そのものであり、PHANTOMは表現の手段だった。今回の新作は「消す」事を、絵具を拭き消すのではなく、「銀箔で覆う」事に替えてみました。キャンバスに絵具を吹き付け木枠に取り付けた後アルミ箔と銀箔で図柄を部分的に消しています。箔の部分は月日が経つと、酸化により銀箔の部分は黒に近い玉虫色に、アルミ箔の部分は白に、徐々に変化していくでしょう。箔が酸化によって変色していく。

【後輩たちへのメッセージ】
僕は中学校教員だったから豊丘の立ち位置が具体的に分かる。本気になれば何にでもなれる能力を持った子たちの集まりだと言う事だ。ただ青春は迷う時代である。しかもゆっくり迷うと手遅れってこともある。何にでもなれる能力を生かしてね!

Miyajima003【取材を終えて】
中学校の先生だったとは思えない程、とても頭の柔らかい、お茶目な宮嶋さん。若き頃は教員の道に進みましたが、「でもしか先生」にならず、生徒さんとの日々を楽しんだとの事、与えられた環境の中でも、最大限自分を生かす良い見本だと思います。そして定年…いよいよ念願叶い、海外進出!長い年月がかかりましたが、思いがあれば、何歳からでも挑戦できるんだ、と勇気をもらいました。
宮嶋さん、これからもますますお元気でご活躍下さい!私たちも 後についていきます。
                                 14回生 すぎうら よしこ

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