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2009年2月

2009年2月 7日 (土)

43回生座談会

卒業して3ヶ月、新しく同窓会に入会された43回生の皆さんと豊丘高校の学校生活に付いて、将来に付いてなど、過去・未来に付いて語り、同級生の「絆」・同窓会との繋がりを考える機会を持ちました。

出席者は以下の10名の皆さんです。
43回生:K君、S君、Iさん、Kさん
先生:N先生、M先生
実習生:39回生Mさん
同窓会:伊藤会長(4回生)、味岡副会長(11回生)、加藤(17回生)

Zadankai43

まず初めの質問は「豊丘高校って他校と比較して、どんな学校だった?」でスタートです。

M先生:この学年は特にいい子達だったと思います。豊丘高校は仲良く楽しくが伝統だと感じています。
高校生活を楽しもうと入学して、ああ楽しかったと卒業していく姿を見ています。ガツガツ勉強をする姿は見ませんね。
今は、球技大会の練習に3年生の子は、お昼ご飯を食べてすぐにバレーをしに教室をバッーと出て行きます。体育館の場所取がありますから。
味岡:私が一年の頃から球技大会でバレーをやっていました。豊丘の伝統ですね。
Iさん:すごく楽しかったです。学校生活を十分エンジョイできました。
大学の友達や豊橋の他校の友達に合唱コン(合唱コンクール)の事を話すと、「それって楽しそう」とか「良いね」とよく言われました。
伊藤:以前は体育館でやっていたけど、体育館を補修する時にアイプラザ(元勤労福祉会館)でやる事になり、その後も続けてアイプラザで行う事になったと聞いています。
M先生:そうそう、私が赴任して来てからだからちょうど8年になりますね。
午前中に文化的な演劇見たり音楽を聴いたりして、午後にクラス対抗の合唱コンクールを行っています。
Iさん:めちゃくちゃ練習しましたね。本当に。クラスで喧嘩するぐらい練習しましたよ。
S君:行事を頑張り過ぎて、その後燃え尽きて、何も無くなる位熱中したね。
伊藤:そういう燃え尽きるぐらいが思い出に残るんじゃないですかね。私たちの頃はそういった事は無くてのんびりしていましたね。
一番初めに先生に言われたのは「トイレのげだを揃えよ!」それが挨拶でした。その頃はグラウンドが整備されていなくて、朝礼の時に自分の幅の石を拾ってはかたずける事をしていました。規律と学校作りをやっていたんだと思います。
Iさん:だからグラウンドがきれいで、ソフトボールができるんですね。感謝してます!
K君:エアコンを入れて欲しいと思いましたね。隣(東高校)にあって、こっちは無いですからね。
M先生:今年からエアコンが入ったんだよ。
Iさん:えーいいな!

「卒業して学校を出たら、変わりましたか?」

S君:みんなでまとまって動いていたことが多かったけど、みんな行き先がバラバラになって、最初の仲間作りからやり直しになって苦労しました。
K君:街とか電車の中で高校生を見ると、「俺、こんなことやっていたのかな?」「もうこんなこと出来ないな」って思います。
Iさん:それすごいわかる。
S君:学校行事が他の学校に比べて多かったので、それに打ち込んでいて楽しんでいたので、楽しい思い出が多かったように思います。
Iさん:いやだった事は忘れてしまうと言うと変だけど、かき消されると言うか、今思えばそこまで辛くなかったって思えるし、もう最高でしたね高校って。
Kさん:もう本当に豊丘は楽しかったしか出てこなくって、いろいろあったんですけど楽しかったかな。辛かった事は消えるよね。
Iさん:うん、消える。
M先生:勉強はやり残した事は無いの?
Iさん:それは言っちゃだめです。勉強はねえ。
Kさん:いまは5教科とかないから、ちょっと恋しい感じが・・・。5教科やりたいなって。
K君:大学のテストとか簡単ですよ。高校の中間テストの方が難しかったですよ。

「4年先の事を想像してみると?」

K君:今の所考えているのは、大学院に行くから、豊橋を離れていると思います。あとは考えていないです。
S君:先生になろうと大学に入ったので教員免許取れたら良いなって思いますけど、国際文化コースに入っているので世界に目を向けて、中国語を独学でやりたいなって最近思っています。
4年後は自己責任で行動できるようになっているかな、今は親に頼ってしまう事があるので自分で行動できるようになっていればと言うのが目標ですね。
Iさん:就職して2年目かー。まだ多分就職して下っ端の方でやらしてもらって、・・・わかんないなあー。たぶん就職してしまうと家を出るので、ちゃんと仕事と両立しつつ、両親にも感謝の気持を持って親孝行していかなきゃって思うし、これからもずっとお世話になる存在だと思うので、やっぱり社会でいろいろな事を学んで、お父さんお母さんにいっぱい感謝して・・・、うーんわかんなくなってきちゃった。
伊藤:あー、親の気持ちになってきちゃって、じんとするねぇ。
Iさん:とりあえず就職しています。
Kさん:私は、公務員になりたいんで来年が試験なんですけど、それに受かっていれば公務員の保育士になって県営の保育園に就職しています。
でも豊橋は取ってくれないので難しいです。豊田市は50人とか取るのに、豊橋は3人とかなんです。
加藤:そして就職して2年目ですね。
Kさん:ものすごいうつの中で働いていると思います。なんか先輩のブログを授業で見せてくれて、公務員の先輩なんですけどめっちゃ病んでて。
公務員だと人数をぎりぎりしか取らないじゃないですか、それで教えてもらえなくていきなり担任みたいな感じで、すごく病んじゃって病んじゃって衰弱しちゃってみたいな感じなんです。
私は打たれ強い人間になりたいです。(笑い)
加藤:豊丘は打たれ強い人間に育ててくれなかったの?
S君:打たれ強いと言うよりは、誰かを頼れば何とかなるって言う感じですね。どっちかって言うと忍耐力ある方じゃないですね。

「15年後(33才):仕事場で中堅として、家庭では親として・・・。」

皆:ははは。
Iさん:33歳ってこと?
S君:人生設計まったくできていない。
加藤:とりあえず、豊橋に住んでいると思う人!(2人ほど手が挙がる・・・)
皆:わかんない。
伊藤:女性の方はパートナーによって左右されますね。
I&Kさん:その頃には結婚していたいよね。
M先生:でも最近は「コンカツ」しなきゃだめのようですよ。男性が結婚に積極的じゃなくなったせいです。
Iさん:「コンカツ」って結婚活動ってことですか?
M先生:積極的にやらなきゃダメ!男性が積極的ではなくなってきているから、女性が結婚したかったらがんばらなきゃいけないと言うこと。
ほっといたら一人で生きて行く事を考えなきゃダメ!アンケートによると、結婚適齢期の男性に聞くと、高学歴・高収入の女性でも良い、つまり寄り添うタイプが増えているようです。世の中変って来ていますよ。
Kさん:心配しちゃうよね。でもわからないし・・・。
M先生:それなら一人で生きて行ける経済力を付ける。
Iさん:無理無理。怖いー!
加藤:僕たちの同級生を見ると、割と豊橋に住んでいると思う、半分と言えば言い過ぎかもしれないが結構います。
M先生:地元思考ですよね。
伊藤:私の頃は8人が出て行って、1人だけ帰って来なかった、後は帰って来ています。
仲間意識があるし、仲間同士だと「おい、頼むな!」で終わってしまう所があるんですよ。豊橋は昔の家内工業的な所があって、外行って人を蹴落としてでもって言う人が少ないようです。
1度豊橋を出るとその良さが判るんじゃないかな?
M先生:大学で1度豊橋を出て見るのが良いですね。
K君:でも、大学近い所が多いですよね。
M先生:愛知県の学生は、愛知県の中で済ましてしますのが多いと感じます。北海道と愛知県はその傾向が強いですね。愛知県の中で間に合ってしまうからですね。
伊藤:遠方にいる同窓生の情報収集の為に、東京支部を設けようかという動きがありますよ。

「25年後(43才):子供も成長し、豊丘高校に・・・。そして30年後。」

Iさん:(笑い)43才って事。
Kさん:考えれん。
伊藤:すぐすぐ、そんなのすぐですよ。
Iさん:やだー!
味岡:時間が長いのは20才まで、20才を過ぎればすぐ30才。30才過ぎればまばたきしている間にすぐ40才。
仕事をし出すと学生とは違い責任が持たされます、それによって給料が頂けるわけなんです。考える事が多く、日々が過ぎるのが早いんですよ。
Iさん:やだね。
Kさん:でも高校卒業してから時間が経つのが早いよね。
M先生:えっもう早いの!?
加藤:25年後には、高校で行われる同窓会総会・懇親会の幹事を行うんです。僕らの時は9クラスあって130人くらいが集まりました。
そして、30年後には卒業30周年記念として学校に記念品を贈っています。冷水機には見覚えがあるでしょう。
Iさん:あっそーですね。
加藤:30年後ってことは、今の親よりも年をとっていることになるね。
Iさん:いやだよね。絶対いやだよねー。
Kさん:生きているのかなー?(笑い)

「最後に豊丘の絆を感じる時は?」

加藤:私が感じているのは、同じ学年でなくても、同じ高校を卒業した人って言うだけで、繋がりがあるかのように思えることです。
それなら話してみるかとか、仕事の取引をしてみるかとか、社会に出て思いましたね。S君、中国で同じ学校出身の人に会ったりしてね。(笑い)
伊藤:私はゴルフ練習場をやっているんですが、話をして豊丘高校の出身だと聞けば、もう少し教えてやろうと思う事もありますし、名簿を見ると、先輩や後輩がよく知っている会社の幹部だったりすると、同じ豊丘高校を卒業したって事だけで親近感を感じますよね。
味岡:毎年300~400人の人が卒業されていて、今年で43回生ということですから、大勢おられるんです。社会に出て思うんですかど、先輩であったり後輩の型であったり、豊丘関係って事で、仕事でも出会うし、いろいろな所で出会う事になると思うんです。
自分は11回生ですので、自分の上は10年しか無いんですけど、43回生は多くの世代の先輩達がおられるんですから楽だと思いますよ。後輩が先輩先輩って言って行った方が楽ですし、いろんな事を教えてもらえるんですから是非頼ってみて下さい。
また、頼られる年代になれば判るんですけど、頼られると何とかしてあげようと思いますから。そいうい意味でも43回生はうらやましいなと思います。
伊藤:同窓生は現在1万7千人もいますよ。
M先生:卒業証書の番号は連番だから、それだけ卒業した人がいるんですよ。
Iさん:そうかー。
K君:今の大学には豊丘の先輩がいるので、就職の時は頼ろうとは思いますね。

今回は初めての企画でしたがいかがでしたでしょうか?年代を感じさせる所もあり、豊丘の絆を感じる所もあったと思います。次回はあなたも参加してみては?
今回参加して頂いた方々に感謝致します。(広報委員17回生加藤)

2009年2月 6日 (金)

渡邉耕造先生

【プロフィール】
昭和42年教員となり知立商業高校赴任。その後昭和46年に豊丘高校へ転任し、以来退職までの33年間在職。現在も非常勤講師として豊丘高校に在職中。

Watanabe_2 郷土の伝統を重んじる根っからの豊橋人

質問:まず渡邉先生の現在をお聞かせ下さい。
渡邉先生:自分では若いと思っていましたが,今年63歳となり年金生活者となってしまいました。
 今年は非常勤講師として,和太鼓部の顧問として豊丘高校に現在もおります。

質問:和太鼓部の顧問をされているそうですが、どのような活動をされていますか?
渡邉先生:平成4年創立30周年記念式典の事業として発足した和太鼓と関わって15年となります。
 特に今年は忙しかったが充実した1年でした。部員は大変だったと思いますが。7月にはカナダ・ドラモンドビルで開催された第25回ドラモンドビル文化芸術祭に日本の代表として,3回目の海外交流。そして今年,豊橋市制施行100周年事業として豊橋球場でおこなわれた,喜多郎ミュージックコンサートに於ける合同演奏。8月1日には記念式典に於ける合同演奏。そして12回目の全国大会への出場(京都城陽市:全国高
校総合文化祭郷土芸能部門発表大会)等20回を超える演奏の機会がありました。
 毎年太鼓演奏を通じてのボランティア活動,地域事業等を中心に活動しています。

質問:先生の趣味に付いてもお聞かせ下さい。
渡邉先生:趣味というか。豊橋の伝統的な祭りの一つである「手筒花火」。竹取から奉納までの1ヶ月間,命がけで関わる男の祭りは最高です。手筒花火は「男のロマン」ですね。もう24年になります。
 もう一つは旅行です。全国の祭りを見て廻りたいですね。

バレーボール顧問としての二十一年間

質問:渡邉先生と言えば「女子バレーボール顧問」と誰しも思い出しますが、印象に強い学年のお話をお聞かせ下さい。
渡邉先生:豊に来てからの一年一年想い出が詰まっていますが,何と言っても赴任した昭和46年6月1日から女子バレー部顧問となり全国大会初出場までの4年間ではないでしょうか。特に1年目25人程の部員が半年足らずの間に12人迄になってしまったが,その12人が今日の豊丘高校女子バレーボール部の基盤を築いてくれたと言えます。
 毎日が生徒との根競べでした。今になって思えば,かなり私の我がままを我慢して聞いて付いてきてくれたと思います。119名の素晴らしい選手のお陰で,今の私があるといえます。
 と言っても現在は和太鼓部の顧問ですが・・・。「素晴らしい思い出をありがとう。」

質問:強さの秘密は「厳しい練習」にあったと聞きますが、その練習内容に付いてお聞かせ下さい。
渡邉先生:当時の愛知県高校女子バレー界は私学王国で,7連覇・失セット0の岡崎女子(現人間環境大学岡崎学園),常連2位の名古屋短期大学付属高校(現桜花学園)が双璧でどちらかを打ち破らなければ全国への道はなかった。そのためには負けられない,負けない指導・練習しかなかったのです。
 時には試合に負けて試合会場から学校まで走って帰らせたことも・・・。でも厳しいことばかりでなく,勝った時にはそれなりの歓びを。つまり「飴と鞭」ですかね。鞭の部分に尾ヒレが付いて・・・。ほんとは仏の渡邉でしたのにネ。
 また家庭においては選手と共に生活,そのためには妻も子供も協力してくれた,と言うよりさせたといった方が正解かも。家庭崩壊もなく,よくもったものですネ。この先わかりませんが・・・。
 今はただ感謝。静かに余生を送っている「やさしいおじいちゃん」です。

今後も豊丘高校との関わりの中で過ごしたい

質問:豊丘高校と他校を比較して、豊丘らしさと感じることはどの様な事ですか?
渡邉先生:うぅ・・・難しい質問ですね。豊を入れて三校しか経験していませんので。
 よく言えば明るくてのびのびしているところかな。特に女子の元気がいい。悪く言えばのんびりしていてややだらしなさ,けじめのなさが最近目に付く。
 しかし,見た目より素直な生徒が多いかな。

質問:今後の目標を聞かせて下さい。
渡邉先生:そうですね。あと何年生徒と関われるか分かりませんが,全国高校総文祭郷土芸能部門大会で上位入賞を果たし,国立劇場での太鼓演奏を実現させてやりたいですね。一生懸命練習しているだけに。

取材協力ありがとうございました。これからも在校生へのご指導よろしくお願いします。(広報委員17回生加藤) 

安形冨美利先生

【プロフィール】
昭和46年教員となり鳳来寺高校赴任。その後昭和51年に豊丘高校へ転任し、保健体育教諭として8年間を豊丘高校で過ごす。その後、時習館高校へ転任、今年3月に退職。

Agata_pic バスケットボールに関わって一生を過ごしたい!

質問:先生は3月に退職されたそうですが、現在はどのように過ごされていますか?
安形先生:今は健康の為に、午前中スポーツクラブに行って運動し、午後は自由に過ごす生活をしています。
 これと言った趣味はありませんが、まあ、バスケットボールが趣味みたいなものです。これまで豊橋バスケットボール協会の監事をしていましたが、今年から協会の傘下である、豊橋ミニバスケットボール連盟の会長になりました。今年6月初旬には、豊橋バスケットボール協会主催のミニバスの招待試合があり、招待チームとして、三重県・岐阜県代表、県内では名古屋市・西尾市・岡崎市・豊田市などから参加していただき豊橋総合体育館で行われました。
 今はコーチとして教えてはいませんが、機会が有ったらコーチとして教えたいと思っています。

質問:安形先生と言えば、バスケットボール部顧問の印象が強いのですが、先生とバスケットボールとの出会いはどのような事だったのですか?
安形先生:私が高校生の時、何気なくバスケットボール部に入ったのがきっかけです。
 私の田舎は、鳳来町の海老と言う所なんですが、豊橋の時習館高校に進学することになり、豊橋で下宿を始めました。その下宿先がバスケットボール部OBの先輩の家で、このお世話になった先輩の影響もあって、バスケットボールに関わって一生を過ごしたいなと思い始めた事を覚えています。
 それを考えた時に将来の職業は教員が良いと考えました。年をとっても教える事ができるし、教師と生徒との関係も楽しいかなと思いました。大学もそれに合った大学をと考え、全日本としてバスケットボールで有名であり、多くの教員を輩出している東京教育大学(現筑波大学)を選びました。
 大学へは将来指導者になる為のバスケットボールの勉強をしようと言う目的で入ったので、監督・コーチの話を聞いたり、マネージャー的な事をしていました。4年の頃には、アシスタントコーチ的な事もさせてもらっていました。監督・コーチがいない時には、私が学生に対して指
示を出したりしていましたね。
 当時、バスケットボールは人気があり、東京オリンピックでもベスト10に入っていたし、その時の全日本の監督が、東京教育大学の吉井四郎さんでした。東京教育大学は有名選手は入って来ないんだけど、不思議と4年の内に成長して有名な選手を多く輩出していた事からも、東京教育大学は好きだったですね。

質問:教師になってからのバスケットボールとの関係はどのようになって行ったのですか?
安形先生:鳳来寺高校に新任として入った訳ですが、もちろんバスケットボール部の顧問をしました。
 あの頃はどこでもバスケットボール部があり、東栄町の本郷高校でも、田口稲武分校や作手分校にも、夜間高校にもありました。
 その後も、豊丘高校・時習館高校・国府高校・豊橋東高校と豊橋近隣の高校に赴任できて、とても恵まれていたと感謝しています。
 また、生徒指導に苦労している教員が多いのですが、赴任した高校全てが落ち着いた・おとなしい・まじめな校風で、大きな苦労をしたという記憶がありません。ここでも恵まれていたなと思います。
 国府高校には教頭として赴任したので、この頃からバスケットボールとは少し離れてしまいましたね。教頭などの管理職はいつ何があるか判らないので、部活動の顧問はできなかったのです。
 教師生活最後の年の平成18年度は東高校の教頭をしていたんだけど、たまたま転勤でバスケットボール部の顧問がいなくなってしまい、同僚からも頼まれ、校長も快く了承してくれたので、コーチを6月から退職した後5月までの1年間引き受ける事ができ、とても良い思い出になりました。7年ぶりの顧問で、昔に戻ったみたいで楽しい1年を過ごせましたね。

豊丘高校は強かったよ。

質問:東三河大会の優勝回数24回を数える成績を残されて、今年豊橋市の体育功労賞を受賞されたそうですが、豊丘高校での部活動時代の話を聞かせて下さい。
安形先生:豊丘高校は強かったよ。私が赴任した頃は、指導者がいなくて生徒達が自主的に行っていたという状態でした。男子は私が入っても最初は自分達のやりたいようにやらせてくれと言っていたね。女子は初めから私に付いて来てくれました。
 次第にチームが強くなってきて、県の上のほうで名が知られるようになり、男女とも東三河大会で優勝するにまで成長しました。
 その頃、愛知県でのインターハイ開催が計画され、その為に強化しようと言う事で、県で1年生大会が行われました。その時、昭和56年だったと思いますが、県で男子は名電に決勝で敗れ2位、女子も3位になったと記憶しています。
 でもなぜ、当時の1年生が3年生になった時に勝てなかったのか?これは下から選手が入ってこなかった為でした。
 試合で勝つ為にはバスケットではできる選手が少なくとも8人は必要です。その当時5人はいたんだが、6人目以降がいなかった。その上、背の高かったセンターの選手が両足捻挫でチームを去ってしまった。インターハイに出場できるチャンスだったんだが、残念だけれど選手の故障と選手育成の失敗で夢が叶いませんでした。
 それ以降も、東三河大会で勝つか(優勝)負けるかの勝負をしていたし、豊丘高校は強かったですね。
 その後に赴任した時習館高校も一定のレベルの部員が集まっていたので、良い成績を残す事ができました。

諦めた事は無い。必ず強くなると信じていた。

質問:ここでバスケット部の頃の話を16回生の植田(旧姓:加藤)さんより聞いていますのでお答え下さい。

植田:先生の第一印象は厳しい先生とは思いもしなくて、目の大きな楽しそうな先生だなと思いました。また、先生の厳しい一面は、バスケットの練習に関わる全てで、中でも忙しい時は、机を体育館に持ってきて、練習を監視していました。
安形先生:期末テストの後、練習も見なくてはいけないし、自分の担当の保健体育のテストの採点も早く出さなくてはいけない、体育教官室でやっていては、時間がもったいないと言う事で、机を持ってきていたのでしょう。常にお互いが顔を見えるところにいることで、選手はいやだったでしょうが、私は安心していられたと思います。

植田:
厳しい練習として、徹底的な部分練習、粘り強さを身に付けるため、倒れるまで続ける反復練習などをやらされました。
安形先生:練習は厳しかったので生徒は体力的に辛かったと思います。女子は朝練をやっていたかな。男は性格上朝練は出来ないと思ったので、最初からやらなかった。女性は内に
持ったエネルギーってものがあるものだから、疲れても絞れば絞っただけ動ける。男は一旦疲れると動けなくなるんでね。女性の方が、精神的にも肉体的にも粘り強いですね。

植田:先生の優しい点として、夏合宿の時のリポビタンDの差し入れや、引退試合の時に、にぎり寿司をごちそうしてくれました。
安形先生:女子は合宿は刈谷にある日本電装に僕の大学の同級生が福利厚生部門にバスケット部の将来のコーチとして就職していて、そこへ行ってやらしてもらった。男子は西岩田にある教職員住宅で、六畳二間に四畳半一間とダイニングキッチンとお風呂があり、十数人を泊めて合宿をしました。
 また、毎年春休みには静岡県へ遠征し、男子は静岡高校、女子は清水西高校で他校との練習試合を行っていました。

植田:先生へ三つの質問があります。
1.地区大会優勝までに育てるポイントは?
2.思うように育たない時、もうここまで・・・とあきらめた事はありますか?
3.先生が自ら練習に行きたくないなーと思ったことは?
安形先生:諦めた事は無い。生徒が一生懸命やってくれるから、必ず強くなると信じていた。逆にいつの間にか強くなって、あれあれと言う間に優勝してしまった年もあった。本当にこいつら良くがんばったと感心したこともあったね。
 加藤の時代は、五並中学校から二人きていて、その子たちは中学時代バスケットボールをほとんどやった事が無くて、メンバーを見ると中心校(羽田中、中部中)の人がほとんどいなくて、でも新人戦にはなぜか勝ってしまうんだね、そして成長して東三河で優勝してしまったんだ。当事者は、何で自分達が勝てたのか不思議に思っていたのかもしれないな。
 バスケットって意外と役割が大切なんだね、5人の中で自分の役割に忠実に動けるようになり、ある程度のテクニックが身に付いてくれば、チームとして勝てるようになってくる。だから、何でもできる子はそういらない。この子はどんな動きをすれば良いのか考えていた事は確かだったかな。
 試合では、メンバーを最上級生だけにせず、下級生を必ず一人は入れてスタートメンバーを決めた。それは、下級生に経験をさせて育てるためで、バスケットはメンバー交代が自由にできる競技なので、そんなこともしたな。

植田:部活を引退した時は、これで怒られないとうれしかったのですが、卒業してから先生のすばらしさがわかりました。通称「あんぎゃー」だったのですが、卒業後は尊敬の気持ちから「安形先生」としか言えなくなりました。
安形先生:同僚に「安形さん、あんた生徒からなんて言われているかしってるか?」と言われ、「さー?」と応えたけど。
 『修学旅行で聞いていると、「あんぎゃー、あんぎゃー」って聞こえて、「だれだー」って聞いたら、黙りこくってしまった奴がいて、バスケットボール部のやつでなー』なんて事を聞いたことがある。僕の聞こえないところで皆で言っていたんじゃないかな、日頃のはらいせに。

質問:全国的にミニバスケットボールが盛んに行われていますが、ミニバスケットに付いて教えて下さい。
安形先生:バスケット経験者の親御さんで、子供にバスケットボールをやらせたいと言う人が中心となって、次第に、各地区で夜小学校の体育館で決まった日時で練習するからと言う事で始まりました。豊橋ミニバスケットボール連盟が発足して20年目になりますが、その数年前から実際には同好会の様な形から活動は始まっていました。
 ミニバスに使うボールはやや小さく、リングの高さは低い、プレーヤーの人数は5人で変わらないんだけど、試合になるといろいろなルールがあって、1試合中に同じメンバーが出ていてはだめで、メンバー交代をして、全員が出なければいけないルールになっている。メンバーを固定すると、せっかくやっていても意味が無いと言う事になるからです。

今は体力気力の充電期間

質問:先生の今後の夢や目標をお聞かせ下さい?
安形先生:今は僅かにミニバスケットでバスケットと繋がっているが、これからいろいろな所で機会が有ったら、バスケットに深く関わって行きたいなと言う気持ちはあります。
 ちょっと今はバスケットから遠ざかって寂しいと思っているが、今は体力気力の充電期間と思って過ごしているんだ。職に就いた出だしもバスケットだったし、僕は一生バスケットと絡みながら、生活して行くのが自分の人生かなっと思っているよ。

安形先生、そしてバスケット部OGの植田さん、取材協力ありがとうございました。お二人のバスケットボールに対する特別な愛情を感じる事が出来ました。これからも、バスケットボールへの愛情を大切にしてお過ごし下さい。(広報委員17回生加藤)