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本多直樹さん(11回生)

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【プロフィール】
豊橋生まれ、豊橋育ち。
愛知県立高校教員として以下の高校を歴任。
安城東高→蒲郡東高→豊丘高→大府高→豊橋東高→豊丘高
現在は卒業生初第19代校長として二度目の母校奉職

【幼き日々のこと】
昭和32年7月、豊橋市前田町に本多家の一人息子として生まれました。向山小学校に入学、4年の時に花田小学校に転校しました。幼い頃から体が大きく運動好きで、ソフトボールやサッカー、陸上競技と色々なスポーツを経験しました。校区運動会や地域の大会では選手として、とてもよい経験をさせていただいたと思います。やんちゃな面もあり、わんぱく仲間と掃除時間に遊んでいたら、帰りのSTで先生に叩かれたこともありましたね。(笑)

【野球と出会った中学校】
中学校に入学時、背が高かったのでバスケット部の先生が家に来て、「どうだ?」と誘われましたが、仲の良かった友達が野球にするので野球部に入部を決めました。当時の羽田中バスケはとても強く、中3の時は全国大会3位の成績だったので、もしこちらを選んでいたら今の人生とは違う道に進んでいたかも…教員はやっていなかったかもしれませんね。

【今に繋がる高校時代】
私たちの学年は学校群制度の最初の年でした。一群は時習館と豊橋南、二郡は豊丘と豊橋東、生まれた向山に愛着があったので二郡を選びました。当時の群制度は合格後どちらの学校に振り分けられるか分からず、同級生が「東高校の方がよかったと思っていた」「豊丘で残念だった」などの話をしていたのを記憶しています。私はそのような事は思いも浮かばず、何を考えているのかな…と思いました。当時はこの件についてのアンケート調査もありました。教員や社会が意識していたのでしょうね。
部活については、野球部顧問の才林先生が「練習見ていくか?」と他の中学校の野球部キャプテンと一緒に誘って下さったこともあり、野球部に入部することになりました。ちなみに、中学校の野球部でキャプテンをしていましたが、そのときのエースピッチャーの藤井君のご子息は現在、中日ドラゴンズの選手なんですよ。

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【山あり谷あり】
1年の夏の大会には6番ライトで出場させてもらいました。初戦は3打数1安打2打点、3年の先輩に褒めてもらったのですが、1年終わりの春季大会中に足首骨折。1か月の入院と完治までに6か月かかり、2年の夏の大会と秋の新人戦は出場できませんでした。つらい時期もありましたが、チームメイトや同級生たちに色々と助けてもらい、周りの人の温かさを知ることができました。怪我をしたのは残念な事ではありましたが、辛い人の気持ちが分かるようになり、今も松葉杖や怪我した生徒さんをみかけると、自然と声をかけてしまいますね。入院時には顧問の飯田先生と才林先生も、お見舞いに来て下さいました。お二人には3年間の部活を通し、大変お世話になりました。今も感謝をしています。また体育の渡邉先生には怪我の最中お気使いを頂き、大学合格の報告時には担任でないのに覚えていてくれ、こんなにもという程喜んでくれた事がとても嬉しかったです。そういえば、高校生の時の成績向上のきっかけとなったのは優秀だった級友の一言。物理で良い成績をもらった時、彼が教室でみんなに聞こえるように「おまえ物理できるな」と言ってくれ…それがとても嬉しく、その言葉を前向きに受け止めて頑張れるようになりました。

【理系の大学時代】
大学は理科が好きだったので、東京理科大に入りました。基礎科学の研究に興味があったので、理学部に進みました。理学部は教員免許が取りやすかったので、とりあえず取っておきました。野球をやる条件が整ってなかったのでハイキングクラブに入り、南・北アルプスなど登りましたね。4年に進学し、就職をどうしようかと思った時、高校野球部顧問だった才林先生のことを思い出しました。将来、先生のような野球の指導者になりたいと思ったのです。親しくしていた下宿の先輩が教員になる為に夜遅くまで勉強をしていた姿にも影響を受けました。

【教員生活のスタート】
教員の原点となる最初は、新設間もない安城東高校でした。生徒たちと同じような新鮮な気持ちで、過ごした事を思い出します。1年目はサッカー部の顧問として、2・3年目は剣道部、野球は4年目からで、その後はずっと野球部の顧問でした。今思えば他部を経験できたのは良かったと思っています。剣道部では、七段の腕前を持つ警察署のコーチと共に合宿なども経験し、目上の方に対する礼儀や一般常識など色々なことを教えていただきました。蒲郡東高校の野球部を監督した時に、夏・秋の大会でベスト8まで進んだことも良い思い出です。ただ教員2年目に恩師の才林先生が若くしてお亡くなりになられ、大変悲しくもありました。

【母校での勤務】
39才で教員として母校に戻り、13年8か月勤務しました。藤原校長先生から始まり、村上校長先生まで7人の校長先生にご指導をいただきました。歴代校長18名のうち7名(7/18を経験できた訳ですから)、これはなかなかない経験ですよね。赴任して2年目の校長先生は、高校2年時に古典を教えて下さった加藤友子先生…当時のPTA新聞で加藤校長先生についての記事を、私が書かせて頂きました。顧問時代の豊丘野球部の成績は夏の大会4回戦進出、これは今もタイ記録になっています。…そういえば夏の大会に、渡邉先生と和太鼓部が応援演奏に来てくれた事もありましたよ。また私が赴任中に娘と息子が豊丘高校に入学し、2人とも野球部に関わっていました。
勤続14年目の11月、中途で大府高校の教頭として転任する事となり、その時は1人母校を離れる事を寂しく思いましたが、先輩の先生に「離任式を1人だけの為に、全校生徒の前でやってもらえるなんて幸せだよ」と言われ、確かに有難いことだと思いました。そして離任当日、正門で、「もう二度とここに戻ることはないかもしれませんが、長い間、本当に有難うございました」と校舎に向かって一礼して学校をあとにしたのでした。

【そして再び豊丘高校に】
大府高校から、豊橋東高校にかわり、この2校では伝統と歴史が良い学校を作る、ということを学ばせてもらいました。そして平成27年の春、縁あって母校に戻って来ることができました。
4月1日、正門を入る際に「再び、お世話になります」と深く一礼しました。

【初の卒業生校長】
赴任してすぐ、同窓会の先輩・後輩の方々が、直接会いに来て下さり、とても喜んで下さる姿を見て、大変有難く思ったと同時に、全身全霊をかけてしっかりやらなければいけないな、と背筋が伸びる思いがしました、半世紀の豊丘の歴史の中で、また教員をされている多くの先輩の中で、たまたま私だったという事なのですが、先人達が築き上げてこられたものを大切にし、また新たなものに挑戦していけたらと願っております。自分がそうだったように在校生の皆さんが豊丘高校の先生達の姿を見て「私も母校に戻って、教鞭を取りたい」と思ったり、親を見て「私も親のようになりたい」と思ってくれたら嬉しいですね。

【若いみなさんに】
何はともあれ、健康第一です。
生きている限り、幸せはあなたの目の前に飛んでいます。掴むのはあなた次第です。幸せになってください。

【取材を終えて】
人生には、色々な転機があります。友人や先輩や、出会った人の言葉をどう捉えるか…それを卑屈に取らず、素直に前向きに受け止めた本多先生の姿が、今の人生に繋がっている気がしました。少し遠回りで横道と思える経験は、逆にその人の幅を広げるし、辛い経験も後々生かされると、インタビューを通じ、改めて実感させていただきました。いつも穏やかで誠実な本多校長先生。同窓生代表として、また豊丘の校長先生として、母校発展のために、これからも どうぞ宜しくお願いいたします。
                            14回生   杉浦由子

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